梅干にはあまりみられませんが、梅は昔々よく歌の題材として詠まれていたようです。有名どころといえば「菅原道真」の歌ではないでしょうか。
●菅原道真-飛び梅伝説
周囲の策略により、突如九州の大宰府に流されることになってしまった道真。
彼は、いつも愛でていた庭に咲く梅の花に歌を詠みました。
『東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』
その後の鎌倉時代、その梅が道真を慕い大宰府まで飛んできたのです!
嘘かまことか、それは今となっては誰もわかりません。
しかし面白い伝説ですよね。
大宰府に流されてしまった道真は失意の内に亡くなってしまいます。
彼の死後、都ではただならぬ異変が相次ぎ、誰もが道真のたたりであると噂しました。
道真の怒りを鎮めるため、死後二〇年経ってから彼の罪を取り消し、七〇年後には正一位大政大臣が贈られたそうです。
それより少し前、北野に祠が建てられました。
そこへ道真は天満天神として祀られることになり、これが後の北野天満宮となるのです。
彼が優秀な学者であったところから、学問の神として崇められていますよね。
道真が梅を愛したというところから、その境内には梅の木がたくさん植わっているのです。
さて、梅干の一般的普及は鎌倉時代にはいってからなのです。
はじめは禅宗の僧侶たちの食事からで、今でも鎌倉の禅寺などでは、自家製の梅干を漬けているようです。(伝統の名残ですね〜)
その後は、武士たちの間に広がりました。
武士たちの日常食、言わずもがな「兵糧(ひょうろう)」です。
ちょっと笑えないお話ですが、食事として持って行っているハズの梅干なのに、食べてもなめてもダメ!と言われていたそうです。
お腹が空いたり、喉が渇いたら、梅干を袋から取り出して眺めるだけ。
自ずと生唾がでてくるからそれでしのぎなさい、という今ならとんでもないような理由だったそうですよ〜。
江戸時代になると、一般庶民の生活にも梅干がはいってきます。
「梅売り」や「梅干売り」が登場するのはこの頃からです。
元禄年間には、紫蘇で着色する手法が開発され、白干だけであった梅干がより一段と色鮮やかに、いっそう食をそそるものになりました。
昔に比べて現代では、欧米の食文化が入ってきたため、梅干を食べる機会は減ったものの、梅ジャムや梅ドレッシング、ゼリーなどとその形を変えて私たちの日常生活に密着していると思います。 |